(205) 朱千駄古墳の鏡と石棺 - よもやまばなし

(205) 朱千駄古墳の鏡と石棺
2015/9/1

 岡山県下で第3位の規模、長さ約200mの墳丘に二重の周濠を持った、前方後円墳両宮山古墳は、極めて不思議な古墳だということは、先々回、その前などのこの話題で取り上げてきたが、その時予告したように、今回はこの両宮山古墳の性格を考えるさい、重要な意味をもったといえる、朱千駄古墳のことである。

写真左方 小池に接して、樹木の生えたところが朱千駄古墳 樹木域の左方が前方部で、東方に向く。全長約65m

 この朱千駄古墳は両宮山古墳から平地を隔てて西南500mばかりの山裾に、ほぼ東方に前方部を向けた、長さ65mばかり(85mともいう)の前方後円墳である。伝えられるところでは、明治3(1870)年に盗掘されて、多くの遺物が発見されたという。また遺物と共に、膨大な朱が発見されたことで、「朱千駄」と呼ばれたもののようである。遺物は一時池田侯に献上されたが、たたりがあったということで、下付を願い旧所に納めたが、また後に掘り出されたとのことである。

 現在では道路工事などで墳丘はかなり変形し、池の堤に墳丘が利用されたような形ではあるが、前方部はやや広がり、後円部からは県下では唯一ともいえる典型的な形態をした、竜山石製の長持形石棺が出土している。大正13(1924)年の『歴史と地理』13-4「備前国西高月村の古墳」(梅原末治著)や、1930年発行の旧『岡山県史』(永山卯三郎著)では、石棺がまだ墳丘に埋まっていて、上部の蓋石だけが露出した写真が載っている。しかしすでに遺物は1890年頃には、再度旧所から取り出されたという。出土の伝えられた鏡一面と多くの玉類や刀剣類は、鏡以外は散逸してしまっている。ただ周辺からはその後も、ガラスの小玉が発見されていたようである。

 この鏡は地主関係者の個人蔵となっていたが、昭和13(1938)年に当時の国指定重要美術品に登録された。既に半世紀も昔のことであるが、倉敷考古館ではこの鏡を借用展示していたことがある。ここに示した鏡の写真は、その時撮影していたものである。現在この鏡が何処で保管されているかについては知らない。

朱千駄古墳の鏡「尚方作神人画像鏡」径20.4cm

 鏡は写真が不鮮明というのではなく、全体に質も出来も悪い状況で、背面模様などあまりはっきりしない。しかしこの鏡と同じ原型で作られた可能性の強い鏡がある。その一つに東京都狛江市和泉の亀塚古墳出土の鏡があり、大変状態の良いもので、現在は東京国立博物館蔵品である。中国からの輸入品で、「尚方作神人画象鏡」と呼ばれ(鏡の名称の場合、古くから【画象】とされているが、以後今回は【画像】に統一する)、東王父や西王母、騎馬の人物、笛と太鼓に合わせて逆立ちしている人物とか、袖を翻して踊る人物など一見楽しそうな図像が鋳だされた鏡である。

 同様な鏡は『古鏡』樋口隆康著 1979年によると、大阪・京都・福井にもあり、朱千駄や他の個人蔵も含めると11例もあるが、これらの中には質も図像も悪い踏返し鏡を含む、とある。実物を見ないと分からないが、あるいは朱千駄の鏡は踏返し鏡だったかもしれない。

 またこの種鏡の画像部分は、国宝である有名な紀年銘を持つ和歌山県の隅田八幡宮鏡の、画像模様の原画であったといわれている。確かに描かれたテーマは同様だが、隅田八幡宮鏡の図像は、現物を見て描いたに過ぎないだろう。隅田八幡宮鏡の方では画像の雰囲気はかなり違っており、図像が全て逆向きで鋳上がっている。型をそのまま取ったような物ではない。

 朱千駄の鏡も踏み返し品なら国産の可能性がつよい。隅田八幡宮鏡も、作者が渡来人であっても中国鏡ではなく、?製鏡といわれているものである。この種の中国鏡が多く保管されていたところでは、鏡の製作も行われていたのであろう。朱千駄古墳の鏡もこうしたところでつくられたものであったかもしれない。同種の中国鏡や、そこで生産された鏡を持つグループは、一つの連帯感で結ばれるグループがあったかもしれない。中央政権の勢力関係が複雑になっていた状況の証明のようである。隅田八幡宮鏡が紀伊国にあったことと、吉備上道勢力との関係も看過できない。

 というのも、先々回の話題で見てきたように、両宮山古墳の主であってよいような、吉備上道田狭が、新羅によって、乱を起こした事件の後、田狭の子の弟君が、雄略天皇の命令で、父田狭を撃ちにいくが、命令を裏切ったので妻に殺された・・・と言うような記事が、『日本書紀』には記されている。

 その後でまた新羅征伐を命じられた者に、紀小弓宿弥がおり、彼には吉備上道采女大海があたえられ伴って行く。このときの同行者の中には、蘇我氏、大伴氏一族の者の名前も見られる。彼らの多くは戦死し、紀小弓も病死したとある。小弓に与えられていた吉備上道大海は、小弓の遺骸を持ち帰り、埋葬場所が無いと大伴室屋に、泣きついて彼の墓を大阪府下の淡輪に作ったとする。

 記紀の伝承をそのまま信ずる事でないのは言うまでもないが、当時吉備と紀伊の勢力がかなり密接な関係にあったことは、窺えるものではなかろうか。

朱千駄古墳の竜山石製長持形石棺
この石棺は、現在位置の、岡山県立博物館入口に設置されるまでは、旧岡山県高等裁判所の裏に、長く置かれていた。其の頃の写真である。

 一方、竜山石製長持形石棺のほうは、掘り出され、いまでは岡山県立博物館の入り口の外に移設されている。この種石棺が、河内地方に古墳時代中頃の巨大古墳が集中する時代には、こうした王墓クラスの古墳で使用されていることは、今では日本考古学では常識となったが、実はこれも先々回話題とした、小山古墳でのショックから始まったことであった。

 今までもこのような話は、幾度も触れてきたので煩雑な説明は止しにしよう。ただこの種石棺が使用された人物は、いわゆる大王関係者、というだけでなく、応神に始まる河内王朝の背後の立役者でもある、『記紀』のなかで常に『皇后』とされるような地位の女性を出している、葛城氏関係者に及んだらしいことも忘れられない。

 『日本書紀』の雄略紀中で、雄略が田狭から奪った妻に関しての注記に、葛城襲津彦の子とも孫ともいう玉田宿弥の娘、毛媛とする説もある。当時の吉備の実力からしても葛城氏との関係も当然考えられるであろう。田狭と雄略の間に妻とした女性を媒介にしてどのような関係があったものか。

 そこには母を同じくして、田狭の子には、兄君・弟君がいて、雄略にも二人の皇子がいた。その間には互いに助け合い関係もあるようだ。雄略が大王に登り強力な勢力をもつために、多くの血縁者を葬り、皇后の出身氏族である、葛城氏の最有力者まで滅ぼした。しかしなお、葛城の「一言主」の神には、自分と全く同じ権威を認めざるを得なかった。そうした情勢下の時代である。『日本書紀』の中で語られる朝鮮半島での国々との関係でも、わが国から赴いた各豪族の間でも、複雑な動きがあり、互いの結合にも全く疑心暗鬼な時代だったと言えよう。

 ここでもまた全くの妄想が許されるならば、雄略は、自己の王朝の陰の実力者、葛城氏勢力を除き、独自で新しい政権を築き上げる努力を重ねたが、その時には、むしろ地方豪族の新しい動き(新羅とも結ぶ外交)との結合を望み、吉備との連携をも強く意識していたのではなかろうか。しかし、自分の死後になって、やはり在地の旧勢力の力は強く、吉備との連携は、むしろ田狭の反乱伝承に作り上げられたのではとも思う。星川皇子こそが、雄略の希望の皇子だったのかもしれない・・・・けっしてお国びいきで思っていることではない。

 朱千駄古墳の主も、こうした動乱を身をもって経験した一人だったかも・・ただこの古墳の主は、男女いずれであったにしても、河内の旧勢力とも、紀伊国の水軍勢力とも、通じ合えるパイプのあった人物だったのであろう。案外40艘からの水軍を率いて,稚媛・星川皇子の援軍として、瀬戸内海を上った人物であってもよいのでは。

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