(149) 古ポスター〔その1〕・・津島事件 - よもやまばなし

(149) 古ポスター〔その1〕・・津島事件
2013/5/1

 事の起こりは、今(2013年)から見ると、二世代も昔と言える45年も前の、1968年5月のこと。上左端の新聞記事が問題となった頃の新聞記事。これより少し前に、考古学関係者は、事態の発生に気づき驚いたのである。

昭和43(1968)年5月20日に、津島グランドからの弥生土器出土が報じられた。パイルとブルドーザーの間に土器が見える

1968年6月頃の津島遺跡の状況
県の遺跡台帳にも載る、周知の遺跡で、県が行う武道館建設工事。、何の調査も無く、工事がはじまり、パイルはどんどん打ち込まれ、土地はブルドーザーで掘り返された。これに対し、社会的な非難が強まり、急遽一般の県庁職員などを集めて調査と称し、遺跡を掘り返したことで、新聞紙上に「潮干狩りのような騒ぎ」(読売1968/5/29)と書かれた。
考古館に残る当時の状況写真

夕刊新聞1968/6/9 写真パイル下に土器群

 上の中央写真は考古館に残る写真、その年の6月初旬に私どもの撮った写真。右端は同様6月の初旬の、やはり新聞紙上の写真。このような古い新聞記事や写真は、先般来話題としたゴミになる新聞では無く、考古館に保存されてきた資料や、関係記事切り抜きスクラップブックによる。

 考古館には開館以来の日記だけでなく、数十年にわたるこうした資料も残っているので、以来60余年、小さい倉庫の面積は、狭くは成っても拡張されること無く、今や身動きならなくなっているのである。

 そのため機会あるごとに、何か捨てられる物はないかと思っていながら、先般来、たまたま発見の古新聞に、やはり見過ごせない様々な歴史があり、この欄のネタになったのだ。

考古館にのこっていた遺跡保存を呼びかけた1968年のポスター

考古館に保存中の写真。同年6月の、津島遺跡県職員調査風景、周辺にはパイルが打ち込まれている。出土土器は弥生時代前期

同年8月23日山陽新聞に載る、津島遺跡の状況

読売新聞 1969/6/10
存運動に対し、武道館をその地に建設する事をあくまで諦めず、保存運動は政治運動だとの中傷ビラ三万枚も配られた。

読売新聞 1969/5/23
遺跡保

朝日新聞 1968/9/20
左二枚の写真は新聞写真だが、共に弥生時代の最も古い水田跡で、杭や矢板痕が確認された周辺調査風景。 右端の神戸新聞には「事件」の文字も見える。

 またまた捨てる前に広げたものが、捨てられぬタイムカプセルを開いたことになったのだ。埃まみれの古いポスターの束が、偶然にも残っていた。現在の館で掲示済みのポスターは、保存したいと思うようなものも、後の管理を考えて、館内に台を設け、入館した方の希望者に、自由に持ち帰っていただき、残りは資源回収に出している。

 今回の話題は、この偶然に残っていた古い掲示済みポスターの束の、中の一枚が、この半世紀近く前の「事件」を蘇らせたのである。事件などと言えば、何かミステリーを連想されたかもしれないが、これは今や国指定史跡となっている岡山市内の津島遺跡で起こった事実である。新聞記事タイトルには、明らかに「事件」としたものもあった。

 「ああ・・あの時はこうしたポスターも作ったのだった・・・」中の左端がその問題のポスター。その他ここに挙げた写真やタイトルは、そのとき前後の各社新聞記事の切り抜きによる。

 岡山市北区いずみ町の津島運動公園と言えば、岡山県内の人は、大体名前は知っているだろう。この中に、弥生時代の住居や遺跡が復元されていたり、競技場スタンドの下には、出土品展示室が有り、遺跡の出土状況も残されていることを、知る人は多いと思う。

 下に並べた写真のように、この地には国指定史跡という立派な標識もあり、説明版もある。しかし一体、ここに示した新聞記事や写真は何事だったのか。今やこの遺跡を知る人の幾パーセントがこうした「事件」を知っているだろうか。

 展示室内には、簡単ではあっても、遺跡のことが分かりよくまとめられた、無料のパンフレットが幾種かある。その中の一つに、この津島遺跡の「発掘調査の歴史」として順次発掘原因と年次が並べられているが、上に示したような事情には、まったく触れてない年表。その時代を生きた者として、これに解説を加える義務があるだろう。僅かな説明だけでも事態は分かってもらえると思う。

 1960(昭和35)年から1963年までの調査は、ただ「北池・南池調査」とだけある。これは岡山県が第17回国体のため、このグラウンドを整備する事業で、池を深掘り中、多量の弥生時代の土器が発見されたことに関係した、調査である。

 この事態によって、急遽岡山県内の考古学関係者が、寄り合って調査をせざるをえなかった。岡山県では、文化財担当者はいても、まだ考古学の専門職はいなかった時期である。しかし当然この時には、文化財保護法もあり、古くから遺跡地として知られていたこのグランドで、今後こうした事態のないことを、この時、県側も確約したのである。

 次の調査は1968・1969(昭和43・44)年、ここにはただ「武道館設置地当初予定地発掘調査」とだけある。これなら現在見れば、全く普通のことに思われる。しかし上に示した新聞記事やポスターは、このときの騒ぎであった。

 1968年の5月、津島遺跡地の真ん中に、ある日突然、太いパイルがどんどん打ち込まれ、地面が掘り返されていきだした。当然多くの弥生土器が露呈し、人目に触れた。明治百年記念で、県知事が率先しての武道館建設で、国庫補助金も出ていたようだ。先の国体の時から、10年も経っていないが、遺跡のことなど、まったく念頭に無い行政であった。

  周知された遺跡地を、県が全くの無届で破壊工事を行い、周辺から厳しく指摘されても、なお工事の強行をあきらめなかったことが、大きな社会問題となり、ここに残るポスターや新聞記事となったのである。

 この間、様々な思惑や、行動の後、国の調査をも経て、津島遺跡はやっと国の史跡指定となったのである。この時、私たちも決して無縁の人間ではなかった。しかし先のパンフレットには1971(昭和46)年1月5日「国史跡指定」とだけ、先の項目に続けて書かれているだけである。

 その後、武道館は建設場所を変えて建設され、再度2005(平成17)年岡山国体が計画された時には、一度は主会場を津島遺跡以外の場所に、求めようとしたが、結局津島遺跡での実施がきまった。今回は事前調査も行われ、遺跡の整備も行われた。その時のことは順次パンフレットに記載されている。

 この遺跡で45年も前に繰り広げられた騒動は、丁度わが国の高度成長期のただ中、各地で開発と遺跡破壊が問題となっている時期、文化財に無理解な行政に対して、大きな警鐘となったのは事実であった。多くの他県の行政機関では、「岡山の武道館になっては」と囁かれたとも聞いている。

 いま津島で、弥生集落の一部が復元された公園を目にした人は、何を思うだろうか。ここが、弥生遺跡だけでなく、かつては岡山にあった軍隊の、練兵場であったことなどは、とっくに忘れられているであろう。しかし先のパンフレットには、練兵場だった記載もあり、観兵式や、軍隊行進の写真ものる。しかしこうした公園の出来る発端の事件は、一言もない。文字で書かれる歴史の怖さと共に、「練兵場とはカッコいい」と、若者が想いだす日の来る恐ろしさを思う。

(下)津島遺跡の現状・右は展示室内の様子

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