概要 - 倉敷考古館

沿革


history

倉敷考古館の開館は1950年11月。すでに還暦を過ぎました。江戸時代の倉を改装した小さな考古博物館ですが、遺跡の多い吉備地方の調査や研究をつづけ、成果を展示発表してきました。

なまこ壁の外観は、倉敷を代表する景観として切手、ポスター、結婚写真やロケの背景として、使われています。

古いの博物館ですが、静かな時を過ごしながら、数万年も前の旧石器時代から、中世備前焼の歴史などにいたるまでの、吉備地方の歴史の魅力を体感していただけることでしょう。

Opened in November, 1950 in the restored earth-walled building of an approximately 200-year-old rice granary. The display area was doubled in 1957 with the addition of an expansion, also in keeping with the rice granary design.

In the Edo period Kurashiki was under the direct control of the Shogunate. It was a gathering point for goods from the surrounding areas. The Kurashiki River, which runs in front of the Archaeological Museum, was long ago a canal connecting the Kojima Bay with the Seto Inland Sea. In the Edo period, storehouses and large merchant homes were built on the banks of the river, and boats plied the river laden with various goods. The Archaeological Museum is one of those storehouses.

 
公益法人倉敷考古館館長 香川俊樹(左) 公益財団法人倉敷考古館理事長 大原謙一郎(右)
香川俊樹

公益法人倉敷考古館館長

倉敷考古館は地域の皆様だけでなく、倉敷に観光で来られる各地、各国の皆様に古代吉備地方の遺跡から発掘された文化財資料を見て、知って、学習していただく場を提供したいと考えています。「倉敷考古館設立趣意書」に綴られている設立に至った諸先輩方の思いに立ち返り、原点回帰を目指して吉備地域の小中学校、高校の生徒の皆さんに郷土の先人達の生活の営みを学習してもらう場として活用してもらいたいと思います。また全国の考古学を目指す学生と研究者のために保有する文化財資料を開放して研究の資料として活用してもらいたいと願っています。倉敷考古館は江戸時代後期の土蔵作り米倉を活用した倉敷を象徴する建物です。この江戸時代の蔵を研究発表の会場としても活用していただけるように門戸を開いてお待ちしています。まずは一度倉敷考古館にご来館下さい。

大原謙一郎

公益財団法人倉敷考古館理事長

倉敷考古館は昭和25年(1950年)11月に、大原総一郎、原澄治らの提案により、クラレ、クラボウ、倉敷商工会議所、倉敷市が協力し、又倉敷市民の応援を受けながら準備を進めて開館に至った考古学資料を展示する博物館です。 倉敷考古館は古代日本の先進地域だった吉備地方の貴重な文化資料を数多く保有し展示しています。旧石器、縄文、弥生、古墳時代の資料を時代順に展示する考古学の拠点施設として、考古学の研究者、学生だけでなく広く一般市民の方々が祖先の生活に思いをはせる文化施設として活用していただければ幸いです。倉敷考古館が学術的価値と科学性を持ち考古学の普及と地方文化の向上に資する文化施設として、今後も成長発展させて文化都市倉敷の象徴的な施設として存続させて参りたいと考えています。

開館から現在へ

 太平洋戦争終結後の1948(昭和23)年に占領軍の指示で解散した大原合資会社の資産の一部が文化事業へ寄付され、その文化事業の一つとして倉敷の町へ考古学資料の展示施設を開設すべく原澄治から提案があった。倉敷は広義の旧児島湾岸の縄文時代貝塚群所在地に囲まれ、すぐ北には巨大古墳が連なる古代吉備文化の中心地がある。そうした環境の地は考古学の博物館施設の適地であり、戦前から開館されている大原美術館と戦後間もなく設立した倉敷民藝館に考古館が加わると、文化都市倉敷としての重みが増すとするものであった。

 これが受け入れられ、クラレ・倉紡・倉敷商工会議所が協力して準備を進め、多くの倉敷市民の応援を受けながら開館への道を歩んだ。資料の収集や展示の実務は、そのころ岡山県の考古学を担っていた吉備考古学会の会員が京都大学梅原末治教授の指導を受けながらあたった。財界人であり文化人であった原澄治は、吉備考古学会の支援者でもあった。

 建物は、大原美術館と倉敷民藝館の中間、倉敷川に架かる中橋北の小山収二家の土蔵を使用し、内部の改装や展示ケースについては外村吉之介民藝館長の指導があった。

 1950(昭和25)年11月1日、新渓園で開館式、翌2日から一般公開となる。二階建ての土蔵に一部中二階をとりつけた小さい博物館ながら、縄文・弥生・古墳・ 歴史時代の資料を年代順展示する考古学の拠点施設が誕生した。大原総一郎・原澄治を顧問、大原の意を受けた豊島武治商工会議所会頭が理事長となっての出発であった。翌1951年5月からは、考古学の専門職員をおき、同年に制定された博物館法に基づき、1952年4月には登録博物館となる。1951年4月財団法人申請 、1952年1月には原澄治揮毫の「財団法人倉敷考古館」の木製表札をかけた。

 1957(昭和32)年には、土蔵の北側に接続し周辺と調和した鉄筋コンクリート三階建ての建物を浦辺慎太郎の設計で新築、展示面積が倍増した。この機に館長を置き大原美術館館長武内潔真の併任となる。

 その後、理事長は田中敦、大原謙一郎(現在)となり、館長は香川俊樹(現在)となった。

 2014年4月1日付で公益財団法人となり、登記を完了した。

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